隅田川を上流から見て左へ小名木川(堀)を入ると、すぐ高橋(たかばし)がある。その対岸の江戸日本橋小綱町の行徳河岸から行徳船に乗って小名木川(おなぎがわ)へ入ると本行徳まで三里八丁(12.6km)である。
 行徳船はふつう10〜24人乗りで、船頭は一人だけの手こぎだったから2〜3時間の航程だっただろう。
 明け六つ(午前6時)の一番の船に乗ったとしても、8時から10時の到着だったのではなかろうか。いつの時代でも陽の高い日中はあまり釣れないものである。とすればもう少しゆっくりと江戸を出て、午後の到着でも良い。そうであればその日は釣りをせずに本行徳界隈の寺社めぐりをして夕方には名物の「笹屋のうどん」を食べて湯に入って汗を流し、宿の亭主や同宿の釣り仲間たちとつり談義をして寝たのだとおもう。
 から身で来てのんびりと過ごす。ストレスがたまった江戸の旦那衆にとっては、行徳は絶好の避暑地というかいきぬきの場であったに違いない・・・
以下 つづく

(要約)

 現在の市川市湊は中世から近世にかけての船津(港)であって鎌倉、室町時代からの物資集積所であり、国府台にあった国府への船津であった。江戸時代になってもその役割は重要だった。そのため、荷物集積所としての(河岸)が必要であり、それを祭礼河岸(行徳河岸)と呼んだ。
 その後、現在の常夜灯が建っている本行徳4丁目地先に新河岸を設けて、江戸からの「客船」の船着場としたのである。そのときから総武鉄道と京成電車が開通する明治43年までの200年間は行徳船の全盛期であった。