先の大戦、つまり、第二次世界大戦で米軍機による日本全土への空襲は、昭和17年(1942)4月18日、米空母ホーネットから飛んだB・25十六機が、東京上空に侵入して爆弾を投下したのが最初である。
 昭和19年(1944)7月9日、サイパンが米軍に占領されてからは、長距離爆弾機B・29の編隊による空襲が本格化した。11月24日、米軍機がはじめて市川市上空を飛ぶ。
小栗原山中アルミ工場に250キロ爆弾3個、焼夷弾4個が投下され、重傷者4名。
つづく・・・

 
 
 


 
 
 
 

 いままではとても信じられないが、相之川交差点(今井橋を下って行徳から浦安へ抜けるバイパスとの交差点)から、現在の塩浜団地や行徳高校方面を見ると、そこは海岸で松ノ木がポツンと見えて、左手には養魚場と御猟場(宮内丁鴨場、現在の福栄4丁目)の森が見えた。もちろん、当時の南行徳中学校の2階の窓から眺めれば、満潮の時には3番瀬の海面が盛り上がって、風に立つ波がキラキラと輝いて見えていた。
つづく・・・

 
 
 


 
 
 
 

 昭和19年11月27日、B−29の編隊が浦安上空に飛来し、2回にわたり爆撃した。1弾は近くの耕地に落下し、水田に大穴を開けた。ともかく米軍機は東京や横浜、川崎、蒲田、大森方面の爆撃を終わった帰り道に、浦安や南行徳、行徳に残弾を捨てていくのである。身軽にしないと燃料が不足する。太平洋上へ退避する敵飛行機が投下するから、そのように見えたのである。そんなわけで浦安にも行徳にも「ばくだん池」はたくさんあった。
つづく・・・

 
 
 

 
 
 
 
 寛政3年(1791)、老中松平定信は勘定役早川富三郎に下知して、塩田の経営をも幕府の直接支配の下に行おうとした。欠真間村地先に堤を築き、一之浜より七之浜まで7つの塩浜を開発し、幕夷を派遣して御手浜と名付けてこれを直轄した。しかし、所詮は殿様商売、失敗に終わり荒浜となってしまった。後年、同村名主伝次郎に金千両、無利子年賦で払い下げられ、伝次郎は御手浜を新田(たんぼのこと)に開墾する。なお、相之川という地名は大昔はなくて、相之川と香取を含めて欠真間といっていたころのことだった。
つづく・・・
 
 
 


 
 
 
 
 南行徳の一之浜竜王宮(通称竜宮様)は、寛政8年(1796)の建立だから、下妙典龍王宮よりも44年も後のことである。妙典の方が塩焼き稼業がずっと古いということだろう。 
 市川市本塩の上道公園の前にも、「南無八大龍王、天明二壬寅歳(1782)正月下浣(下旬の意)8日」と刻まれた石碑が祀られている。屋号を清蔵という本塩の高橋家が祭事を執り行っているが、日蓮宗海近山 頓寺の住職が、毎年2月1日の御奉謝にはお経をあげてくれるという。
つづく・・・
 
 
 


 
 
 
 
 南行徳1丁目7番に御手浜公園がある。由緒ある名称である。だが、これには知られていないエピソードがある。市川市南行徳第一地区画整理組合事業計画書によれば、当時の計画の公園の名称は「六七ノ浜公園」であった。つまり、「六ノ浜」と「七ノ浜」の場所の近くに公園を配置したからである。ところが、実際に市川市の公園とされるにあたり、「御手浜公園」と称されたのである。
つづく・・・