行徳橋から上流は真水域で、市川橋上流の国府台辺りから江戸川水門にかけて鯉を釣る人を見かける。江戸川水門、通称篠崎水門から下流を旧江戸川と呼ぶ。旧江戸川はかつての本流であり、高瀬船が往来した川筋だった。
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 延宝8年(1680)、深川元番所(万年橋)近くに芭蕉は移る。鯉を飼っておく池があり、一部が生贄になっていた。そばに生贄の番小屋があり、それを手入れした庵だった。
 「芭蕉」という観葉植物は、後年、「芭蕉が植えた」といわれる。なお、当時、高級、贅沢とされていた「芭蕉」は、財力のある杉風がすでに別荘に植えていたものだ、という説もある。その後、芭蕉は「はせを」と署名するようになる。
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  芭蕉が行徳へきた貞享4年(1687)8月は、祭礼河岸と呼ばれた行徳河岸が江戸川筋に移された元禄3年(1690)の3年前のことになる。祭礼河岸というのは、各地の産物を積んだ船の発着場で、人を乗せた船の発着場は別にあった。その場所は、本行徳4丁目の教信寺裏の内匠跡辺りから徳蔵寺裏手の道路が二股になっている辺り、と考えられている。芭蕉もここで船を捨てている。この付近で下船した旅人は、権現道や行徳街道を往来した。また、江戸川を遡上したい人は、川べりへ出て船に乗っただろう。なお、祭礼河岸が川筋に移されたとき、同時に現在常夜灯がある関ヶ島と本行徳の行政境付近に人を乗せた船の発着場を作った。これを新河岸という。
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 法善寺の寺地を含んでバイパスまでの地域を現在本塩と呼ぶ。この地域は、かつて江戸時代は行徳新田であり、近くは本行徳塩焼町などと呼ばれていた。いまでも本行徳や妙典の人たちが「しんでん」と言ったらそれは本塩のことを指す。
 本塩の地域は、江戸初期は妙典地域から連なる砂洲の湾曲した尻にあたっていた。新開(地元ではシンケと訛る)である本塩の浜辺に出る道を付けたのが2丁目道である。それはバス通りから円頓寺前へ出て、右に折れ、直ぐに左へ入る。十字路に出た左が法善寺で駐車場が広いが、もとはここに斜めに参道があった。
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 芭蕉が下船した河岸の目の前は、澪筋の船留まりで、向こうに塩焼の煙がたなびいているのがみえただろう。縦長の塩田の両脇には溝があり、溝と溝の間隔は十間(約18メートル)で、長さ五十間(約90メートル)、面積にして二反(600坪)ほどが一区画になっている。海岸には防波堤である潮除堤があり、内陸には耕地囲いの囲み堤がある。その奥は権現道と行徳街道があった。そのような景色は、堤跡の小高い街道から見渡すことができる。
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 貞享3年(1686)、鹿島詣の前年に「古池やかえる飛び込む水の音」の句を作る。弟子の鯉屋市兵衛こと杉山杉風提供の深川の芭蕉庵での発句。「名月や池をめぐりて夜もすがら」の池も芭蕉庵。芭蕉庵の敷地は約600坪、真っ暗な生け贄の近くに小さな明かりを灯しての句会であろう。池には大量の鯉が飼われていたはず。
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