行徳沖の海岸は遠浅で、昭和30年代(1955〜)でも8キロメートル程先まで干潟になった。大潮の満潮では、1.5メートル〜2メートル程海面が上昇した。しかも、行徳の浜は東京湾のオンドマリであり、南に向かって面している。イナサ(南東風)はおっかねえ風だと浦安の漁師さえも恐れた。イナサは木更津方面から吹いて来た。3月頃のイナサは暖かい空気を運んできたが、大波が打ちつけた。夏のミナミ(南風)は、吹き始めると風向きが変わらず、黒い雲が出て、急に突風が吹く。それをショウテとかシオテという。
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 江戸川の江戸川区側の堤防は篠崎街道がそれである。これを「大囲い堤」という。川に面した小堤を「川除け堤」あるいは「外堤」といった。江戸川から大囲い堤までの地域は洪水の場合の遊水池になる。これは甲州流という治水方法である。行徳河は現在の旧道のバス道路が自然堤防だった。それが現在では今井橋の上流で最も川幅が狭くなる。そこは今井の渡しがあった場所である。今井の渡しの下流で、江戸川の流れがぶっつけになる場所に古川の川口があった。現在の江戸川区下今井バス停近くである。
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 さて、城山があった新井2丁目1番から、道路向かいの新井2丁目6番の所も標高が少し高かった。そこはどういうわけか貝殻と砂が多かった。
 現在の新井2丁目6番は内匠堀跡の暗渠の隣だが、かつての畑は内匠堀から50メートル程離れた所にあった。貝殻と砂が多い小高い畑は、江戸時代最初期の潮除堤跡と考えられる。村人が塩焼きをしたとすれば、堤防の外である。つまり、揚げ浜式である。恐らく新井の内匠堀の暗渠の付近が海岸線であり、砂浜が続いていたと思われる。
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 南行徳小学校とバイパスの間を連なっていたへび土手は、香取に入ると道路を越して胡録神社境内へ続き、行徳駅近くの弁天公園内の弁天社にいたる。それから押切の光林寺裏の「長山」といわれた堤防跡地につながっていた。なお、へび土手と呼ぶのは新井、相之川の人達だけである。
 それにしても、元禄の時代(1688〜1703)でさえ海岸線は近く、江戸川から南行徳小学校の敷地内の蛇山があったと記憶される場所まで、およそ300メートルの距離しかない。徳川家康が行徳を支配し始めた天正18年(1590)ころの海岸線は、もっと内陸へ入り込んでいたろう。言い換えれば、100年の間に100メートルほど海岸線が前進したと言える。
 
 
 

 
 
 

 小宮山土手は、湊新田、湊、押切の各村を手厚く囲った。現在の地名でいえば、湊新田1〜2丁目、行徳駅前1〜4丁目になる。なお、行徳駅前1、3丁目は旧押切であり、2、4丁目は旧湊になる。
 本行徳はどの辺りに小宮山土手があったか定かでない。しかし、行政区画で現在妙典4丁目14〜24番(妙典中学校がある)の地域は、かつて「小宮山」といわれた「字」地である。いまそこに小宮山公園がある。妙典、本行徳地域の方が新井などよりはずっと海に張り出していたことが分かる。朱印状は吉宗の死後、30年ほど過ぎた安永年間(1772〜1780)に幕府によって取り上げられてしまった。
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 文化6年(1809)、幕府は当代島2町7反9畝、新井村16町4反、欠真間村13町9反1畝、下妙典村3町8反2畝(約11万坪)の新塩浜の開発を命じた。また、それとは別に湊新田と湊の名主、年寄、百姓代は連名で嘆願した。
 行徳領猫実村鎮守神明下(浦安市豊受神社)より」西海神村(船橋市)までおよそ長さ6千間(10.8キロメートル)、横平均8百間(1.44キロメートル)を新塩浜と田畑に開発する、というものだった。
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