行徳は古来より「驛」だった。現代の「駅」は「驛」の略字である。驛は至急の用事のときに、次々と乗り継ぐ馬を置いてある宿場のことをいう。驛は陸上交通の駅と水上交通の駅があった。かつて行徳は水上交通の駅だった。それを「水駅」と呼ぶ。交通手段は、陸上が馬、水上は船である。
 律令体制化(671〜)での駅を駅家(うまや)といった。管理、運営をするものを駅長といい、駅家の維持費は駅田から収穫される駅稲でまかなった。その時代は、下総国が編成され、市川市国府台に国府が営まれた。
以下つづく・・・