昭和40年代の前半までの行徳・南行徳地区は「行徳水郷」と呼ばれたほどの農村地帯でした。当時は江戸川沿いの土手は舗装も満足にされていなくて、草ぼうぼうのところもありました。
 昭和44年に現在のようなコンクリート堤防になったのです。
 浦安から本八幡までの9.5キロメートルのバス路線は、大正10年に運行されてから、道路の拡張などがされて、新井の村の幹線道路となっていました。
 古来から新井の集落はこの道路沿いに展開しました。そこは、江戸川の度重なる氾濫によって「自然堤防」と呼ばれる堤防状の高地であったようです。
 そのバス道路と現在の江戸川堤防の間の地域(広尾1・2丁目)は現在の道路面の高さにするのに約2メートルの土盛りをしています。
 バス道路から地下鉄東西線の線路に向かった南の方角の地域は、新井2丁目になりますが、区画整理でやはり1.5メートルの土盛りをしています。尚新井小学校の周辺は1丁目になりますが、同様です。
 新井小学校は、開設の際には地元の土地の所有者の皆さんから真摯な土地提供があったと聞いています。

(要約)